本来の祝詞とは



神職によって奏上される言葉、
祝詞(のりと)』

本来、祝詞の「ノリ」は

古事記の昔に
天石屋(あめのいわや)の天照御大神へ捧げる祭りにおいて
天児屋命(アメノコヤネノミコト)が
『布刀詔戸言(フトノリトゴト)』を述べたように、

“上から下へ宣(の)り聞かせる”

・・・という意味であり、
すなわち、
“神の言葉を祭りの場にいる人々に聞かせる”
為のもの
であった
・・・という。

これは恐らく、間違っていない。

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長くなるので簡単に
理由の一つとして挙げておこう。

【延喜式】(927年)に収められた
27編
の祝詞
のうち、

“宣下体(せんげたい)”の祝詞
(…神(うえ)の言葉を人間(した)へ伝える)

9編となっており

逆の形の
奏上体”の祝詞は、
(…人間(下)から神(上)へ申し上げる)
17編
(残り1編は漢文体詞。)


要するに、残念ながら
すでに1000年以上の昔には
「神から直接与えられた言葉(文体・型)」の祝詞が、
半分以上、
改変されてしまっている
のである。

なので当然の運びとして
現代の祝詞は
ほぼ“奏上体”で伝わっているし、
各神社の神主が作成する祝詞もすべて“奏上体”のもの
だ。

とはいえ、さすがに
現在でも本格的な「新嘗祭(国事)」などでは
延喜式当時の祝詞を用いるようではあるが。

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神の名と徳を称え、
供物の献上と共に感謝、次に報告をし、
各種の願いを祈って
それら全部受け入れてもらえるよう、願う。
これが
“奏上体”
の形式である。

これを知り考えれば、

国や土地では無い
小さな単位の人間個人や小集団の願い(あるいは欲)、
下の者が欲求を叶えるための云々を
上へ切に訴える手段として
「神から与えられたそのままの御言葉」は、
故意に変質されてしまった―――

そうと解るし

何よりも、「言霊」とは
霊力を持つものであり、

(コト)”は、現実の“事(コト)”である

と考えられてきた歴史を思えば

その稀なる力に頼って思惑を叶えようとするのは、
何でも利用して世を生きぬく人間のサガとして
仕方の無いことなのだろう。

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だが、祝詞の真価
このようなものではない。


それに気づいているのは、
広く深く研究し尽くした者や、
発する祈りと自身の霊体に穢れの無い神職、
霊力が一定を超えていて且つ
間違いなく上と繋がり高位の指示を受けている霊能者


それらの中でさらに極少数・・・
と、いったところか。

では それ とは
果たして何であるか――― だが、これは
折を見ての記述としたい。


1年とちょっと前、
すでに上から霊名を授かっていた海丈は、
ある日、勤行時に祝詞を奏上する際
発する直前に

『○□△(←霊名。都合により伏せます)、詠いなさい』

と、一言だけ言われ、
発声した途端、詠い方が伝わり
祝詞の本来の力・役目・目的、
そういうものが奏上しながらよどみなく降りてきた
・・・
という経験をしている。

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だからこその、理解である。