異界探求の継承者 ②




少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)。

大国主神(オオクニヌシノカミ)の国造りを補佐し
主に、医術と呪(まじない)を伝えた神として知られているが
それ以外、この日本では
他にどのような神徳を持ち、活動をしたのか
明らかにされておらず、詳細が謎に包まれた神
である。

だが、その神格は非常に高いらしく、
辿れば、中国神仙家達が年月をかけて
その地位や働きを徐々に明らかにしてきた神
だという。

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神仙界――

その中枢である二大神都(太陽神界と神集岳神界)や
他、数々の神仙界を開拓し、組織し、
神仙界最高の第一都であり万有宇宙の中心であるとされている
北極紫微宮・直系大神として、
少名毘古那神は
伊奘諾尊(イザナギノミコト)の代理をつとめ
神仙界全体の統制を担っている
とされる。

後に宮地常盤の息子である、宮地水位は
日本では『高天原』と言われる
至高神界の北極紫微宮
を訪れたそうだが、
彼、いわく

「紫蘭大枢宮号真光遊門
(シランダイスウキュウゴウシンコウユウモン)の
前庭、上方には、至高神の住まわれる扉があり、
開いてはいるのだが
ただ猛烈なる電光の、3つ、キラキラと光ありて
四方に発散するを拝するのみ
。」


と記している。

どんなに徳が高くても、人霊には許されない天上国。
大神直系の神霊しか踏み入ることの出来ない
北極紫微宮(=高天原)での、
少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)は
またの名を“東海大神仙王大司青真小童君”
(トウカイダイシンセンノウダイシセイシンショウドウクン)
と言う。


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このように
神仙界の要である高貴な神との縁
大山祗神のはからいにより結んだ常盤は、
“神・霊・幽の三界”に、
自由に出入りすることを許された


そして各界の神々から
飛行の法、海上歩行の法、妙薬の作り方、など等
人の領域を超えた術
を多々授かってゆく。

その傍ら、息子である水位の教育にも
力を満遍なく注ぎ、
幼少の頃から英才教育を施した。

宮地水位(みやぢすいい)。

1852年12月18日(嘉永5年11月8日)
土佐国潮江村に生まれた彼は
人生上で名を5度、変えている

幼名は政衛(まさえ)、次は政昭(まさあき)、
3度目は清海(きよみ)、4度目は堅磐(かきわ)。
晩年は再来(よりき)とした。

水位という名は
神仙道探求者としての名であり、
彼が22歳の時、少名毘古那神より直接、
与えられた道号
である。


常盤は、自分の学識はもちろんの事
藩内一流の学者・武人のもとで彼を学ばせた。
さらに藩校「致道館(ちどうかん)」に通わせ
経書・歴史学・易学・天文学・医学・剣術・柔術・砲術・・・と、
18人の師から、なんと16学科を習得したという。

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この頃、時代は幕末であったので
廃藩置県により、途中で
致道館が廃校
になってしまうというアクシデントはあったが
驚くべきことに、父・常盤は
致道館所蔵の図書をすべて購入、水位に与えた

まさに情熱をかけた英才教育であり、
己が心・技・体、そして神(霊)事、
すべてを継承させんがための教導であった。

そうして、水位も父の期待に応えた。

幼少時から天与の才を発揮、
学問や武術の面ばかりでなく、神事でも
はや10歳の頃には脱魂法をマスターし、
父の使いとして、手箱山の大山祗神神域へ
脱魂状態で出入りしていた
ほどだったという。

彼が成人に及ばない時に、
常盤は神職取り上げという処分をくらったので
当時、若干12歳であった水位が
潮江天満宮祠官の職を継いで神明奉仕の生活に入る。

たった12歳で・・・、という
周囲の不安や あざけりをものともせず、
父・常盤と同じく
水位も淡々と神明奉仕道にはげみ
16歳になる頃には編著書を成し、発表
18歳の時には、四国の山中に鉱山を発見
19歳からは玄学(道教・神仙道)の研鑽に力を入れ
著述もどんどん発行してゆく。


父の情熱と期待を裏切ることなく
水位は、このように
次々と才能を開花していった。

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(和漢三才図絵「北極紫微垣之図」部分・上下逆)

そうして、22歳の時。

少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)
=青真小童君(セイシンショウドウクン:仙名)
から、直接与えられた
神仙道の“水位星”に因む『水位』の名を名乗り
異界探究活動を、本格化
させてゆく。

(※水位星・・・小犬座・蟹座・ふたご座に位置する星。
井戸の水位を測る道具を意味し、
水星と月の精(性格)を有す。
「水星」は、言語や知識・医薬を象徴。
「月」は繊細な感受性・変化する霊体や精神を表す。)


“神仙とは、是、星の精であり化身なり。”

この道教の教えに基づき、
『水位星の化身』と
高貴な神から名づけられた宮地水位は、
仙界との並々ならぬ深い神縁を自覚してゆくのである。